まったくモテない41歳独身底辺男が流されるがままに適当に生きながらもがき足掻く日記
一昨年ナンパを始めた頃から、女との会話に慣れるという意味でも積極的に仕事で配達先であるガソリンスタンドの店員の女に機会があれば声掛けをしようという心構えではいるのだが、前回でも書いたようにたとえよさげな店員の女がいたとしても、なかなか接触機会というものがない。

スタンドには店長もいるわけだし、セルフスタンドだとあちこちに監視カメラがあり、あまり妙な動きはとれない。

だから、オイラみたいなナンパ童貞がいくら知恵を絞ってもせいぜい「今日暑いねー」「寒いねー」「今日すごい混んでるね」くらいしか思い浮かばんのだ。

そう言ったところでたいていは「そうですね」と言われて終わる。中には「あぁ、はい」みたいなストナンのときの反応くらい冷たい態度をされることもある。

それでそのときちょっと反応が良くても、次にそのスタンドに来るのはいつだかわからないし、1ヶ月も空けばもうその女は辞めていなくなっていたりする。

だから2回目、遅くとも3回目に会ったときには少なからずお互いの情報交換をしておかなければならない。


ところで昨年暮れの話になるが、新宿で四苦八苦している裏でスタンドナンパもより積極的なスタンスで臨むことにしていた。

昨年の12月は例年より寒かったこともあり、とにかく隙があれば「今日寒いねー」「今日さぶくね?」「さっぶいね~」・・・そればっかり。

もう普通の挨拶だ。いい大人になっていれば、いや、バイトでも仕事に携わっていれば当たり前のマナーとして行われる挨拶。

オイラはその挨拶ですらどこがぎこちなく、あの子に挨拶しようと思った瞬間から心臓の鼓動が大きくなりやがる。


高校、大学と年次が上がっていくにつれ、ますます周りとのコミュニケーション能力というものがそれほど必須なものではなくなり、学校に出席して赤点さえとらなければなんとかなり、大学なんて酷いもので、大学に行ったところで誰ともしゃべらない日の方が断然多く(というかしゃべれる知り合いが3人しかいなかった。もちろん全員男)、バイトもあまりコミュニケーションを必要としないようなものばかりやっていたので、その能力は中学生レベルのまま年齢だけを重ねていった。


そんな暮れも押し迫った12月某日、わりと定期的に行くスタンドに行くと、1年くらい前から見かける挨拶くらいは交せる20代半ばくらいの女のバイトがその日もいて、積荷確認の際にその女が来たので、ちょうどこの頃から東京近郊では急に寒さが厳しくなっていたこともあり、相手は業務の顔というか、素の顔だったが、「今日すごい寒いねぇ~!」などと相変わらず芸のない声掛けをしてみた。

でたいていは当たり障りのないというか、こんなのはほんと挨拶代わりなのでどんな人でも「そうですね」とか「寒いですね」とかの反応が返ってくるものだが、このときはなぜか無反応だった。

この時期、ストナンでの洗礼を受けちょっと気持ちが沈んでいた時期でもあり、ストナンだけじゃなく取引先の女ですら無反応なのか?!とやや腐り掛けていた。

荷卸しが終わり、荷卸し終了の確認でまたその女が来た。
今までの俺だったら先の鈍い反応といい、もう余計なことは話すことはなかったのだが、ナンパの練習という意味でもここで身を引くわけにはいかなかった。

しかし声掛けのネタがまるでない・・・季節の挨拶はすでにしてしまったし。

ふと、ここに来るときに聴いていたラジオのことを思い出した。
それは年末に都内で行われたある特別なイベントのことだった。
そいつをエサに、彼女が確認中にさりげなく話掛けてみた。

俺「・・・今日〇〇で〇〇やってるの知ってる?」
女「え?知りません、そうなんですか?!」
俺「そ、そうなんだよね、えーと今日の〇〇時からさあ、ゴニョゴニョ・・・」

イベントネタはことのほか食いつきがよかった。
俺が二言三言いって女がへぇ~で終わるものと思っていたが、女が意外とそのイベントについて質問してきて、一瞬たじろいだがラジオで言っていた内容を思い出しそのまま説明してやった。

その後お互いなごみ、さっき無視されたのでもう一度「今日すっごいさぶくねえ??」と言ってやったら、「寒いですねッ!」とさすがに答えてくれた。

だがなかなかここからプライベートな展開に持ち込むのが難しい、というか時間が無い。
客が来ていたらそっちの対応をしにすぐ行かなくてはならないからだ。

でもこの一件でこの女に関していえば、確実に門をひとつ打ち壊して突破した感があった。
次回いつ接触するかわからないが、その際には実践的なナンパの練習も兼ねて積極的に次の門を叩かなければならなかった。

(つづく)


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【2012/04/22 18:37】 | ナンパ
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ハーバードナンパスクール佐藤エイチ
続きが気になりますね♪

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仕事が忙しかったことと、青春編がことのほか骨が折れる作業だったこともあり、2月7日から近況ブログをまったく更新できないでいた。

2月3月はそれなりに色々とあり、少なからずもナンパにも出撃している。
そのへんのことはおいおい書いていきたい。

それと体の調子だが、横っ腹の痛みで医者に行ったわけだが、医者に診てもらった後は徐々に痛みも無くなり、CTや採血、尿検査の結果も特に問題なしとのことだった。

すでに30代半ばも過ぎようとして中年に差し掛かる年齢であり、会社の定期健診といえば簡易な車両移動型検診のみだったので、大きな総合病院でCT、採血、採尿の結果が異常なしなのはやはり安心させられる。


ところでダラダラと続いた青春編だが、書いてみれば特にめずらしくもない、勝ち組か負け組かの二極化の現代においては後者のよくある典型と言えなくもない。

また、やはり外見というのは人生を大きく左右させるほどその人間が形成されるうえで大きなウエイトを占めていると、35歳になった今でもその考えに揺るぎはない。

人の性格の基本的な部分は、子供の頃の育った環境と両親の性格、教育の仕方によってすでに形成されてしまっているが、その人の性格を形成するうえでわずかに残されたのりしろの部分というのは、案外他人からの勝手な評価によって形成されてゆくのではないかと思っている。

特に大人になってからの対人関係においては、そののりしろの部分の性格がその人の性格として認識され、また本人としても、周りがそういう認識なのだからおそらく自分の性格はそうなのだろうと、たとえそれが自分の思い描くような、あるいは理想の性格像とかけ離れていたとしても、その性格に傾倒していく、または傾倒せざるをえないのではないかと思っている。

そしてその勝手な評価は勝手なだけあって、勝手に外見から評価されることの方が圧倒的に多い。


世の中不公平と理不尽に満ち満ちている。
悩みなどない人間などいないだろうが、その悩みの大きさが問題だ。
10代も半ばになれば己がどんな奴でどのくらいのレベルかを自覚する。
それは自分よりも先に、むしろ周囲によって思い知らされる。

引き篭もってる暇などない。
勉強を人一倍がんばるだけではとても足りない。
勉強以外に人一倍がんばらなければならないことがある。
そしてときにはずる賢く立ち回らないと、並の人生を送ることすら困難になる。





【2012/04/16 12:38】 | 今思うこと
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ラーク
いつも興味深く読ませてもらっています。
私のブログにリンクしていいですか?
できれば相互リンクしていただけると嬉しいです。


LIGHTAN(ライタン)
>ラークさん
お返事遅れてごめんなさい。
オッケーです。

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さすがにもうこれ以上借金はできないので、今回はかなり慎重になっていた。

まず大学のパソコン室に篭ってスロットの情報を収集し研究した。
この頃のネット環境というのは、一般家庭ではまだほとんど浸透しておらず、今では常識である常時接続は大学などの教育機関や企業などに限られていた。

なので、ネットで集めた情報というのはホールのライバル(客)が知りえないものも多く、その効果は抜群だった。

スロットブログではないので詳しいことは割愛させていただくが、8月はイベントなどにも恵まれ、結局この月の収支は-15万から+10万ほどまでになっていた。


ここでおかしなゆがんだ自信がついた。虚構の手ごたえがあった。バイトなどしなくともこれなら十分やっていけるのではないか、と思った。


事実、その後卒業する3月までスロットの収支は毎月10万前後は稼いでおり、煩わしい人間関係からも解放され、授業にもきちんと出席し、ようやくここにきてどこか心に余裕ができてきた。

かといって就職活動はしていなかったし、もうそれは卒業して実家に帰ってからそっちで探そうと思っていた。
それに多少スロットの自信があったとしてもやはり相手はギャンブルなわけで、時間さえあればホールに行って店の状況などをチェックしなければならず、とても就職活動どころではなかった。


就職活動なんかよりも、残り少ない大学生活、残り少ない青春、その青春のうちに一度くらい女の子と遊んだり付き合ってみたいという思いの方が強かった。


この頃の携帯電話といえばネット環境などまだ無く、メールにようやく漢字が使えるようになったとかそういうレベルであった。

そんな中、声による伝言サービスみたいなものがあった。
これはまんま、ダイヤルQ2とかツーショットダイヤルなんかの伝言ダイヤルと一緒で、今考えるとよくこんなサービスが電話会社で公に、しかも無料で行われていたなあと思う。

そいつを利用してみることにした。
今みたいに写メなど無く、その判断は声とプロフィールのみだったので、23歳という若さとその声、大学生ということで反応はなかなか良かった。

10人くらいの女と会った。そのうち20歳前後の2人とは一応付き合うという形にしておいて会った当日か2回目までにセックスをした。(体型・容姿ともに中)

といっても、会うまでに数回のメールのやりとりや電話、会ったときも映画やらなんやらと細かく連れて行ってからのセックスなので(しかも律儀に付き合うという形をとってからの)、ナンパという感じではない。

まあ俺もブサイクなりにもその若さのみからくるフェロモンみたいなものは出ていたのかもしれない。
10人中、9人目、10人目と連続してヤれた。

よく俺みたいなブサメンが若い子とヤれたなあと思うが、今考えてみると、8人目までで女に対してある程度慣れることができて、それからは今みたいに特に会話に窮するということもなく、まあ同世代の若者同士だからというのもあったけど、適当に身を任せておけばよかった。


そのうち1人とはその後2,3回会って別れ、もう1人とは夏前に俺のダメっぷりに愛想をつかれるというかたちで別れた。

しかし今考えてみればあの頃が俺の男として一番華があった時代で、せっかく調子に乗ってきたのだからそのままナンパを続ければよかったのだが、なかなかそういうわけにもいかない理由があり、3月が来て大学を無事卒業ということになり、と同時に大学生という肩書きは無くなって5年振りの職業=無職になり、片田舎にある実家に帰ることになった。


実家に帰ってもその怠惰な生活にどっぷり浸かりきった体は相変わらず働く気も起きず、しかし親(母)も同居なので、日に日に親からの圧力が増していった。

実家に戻ってからは母の監視もありスロットで凌ぐということはできず(借金は当年5月にすべて返済)、月に2,3回ある下水道やら河川なんかの水質調査のバイトで凌いでいた。


日増しに親の圧力は増す。日曜日が来るのが憂鬱だった。それは日曜の朝刊に求人折込広告が入っているからだ。

そのうち日曜日朝起きると、テーブルの上に母が勝手に会社を選んでところどころに赤ペンでマルが付けられた求人折込広告が置かれるようになった。


2000年前後というのは、就職氷河期と言われる時代であり、中でも2000年というのはその中の谷、超氷河期と言われる時期であった。

ただでさえそんな時期なのに、こんな片田舎の求人などロクなものがなかった。

怪しい工場やご提案という名の飛び込み営業、外食チェーン、パチンコ屋店員、掃除、若さと元気が自慢のベンチャー企業、そんなのばかりだった。

というか、よくよく考えてみれば、景気が良かろうが悪かろうが、こんな広大な田んぼが広がるような土地のどこを見渡してもスーツを着たサラリーマンが通うような会社もビルも建っていなく、そもそも大学を出て間もない若者が人並に夢を持って働けるようなまともな企業などなかった。

だが母は、もう大学在学中から「就職したら当然実家から通うんでしょ」みたいな、俺のことをアテにしているというか、そういうニュアンスの圧力を掛けており、なるべくこっちで探しなさい、親と同居推奨みたいな、そんな感じであった。

一応大学3年の春休みに地元の県の、とあるひなびた地方都市で田舎臭い合同説明会に参加したことはあるが、各ブースは、大不況の中上昇気流だったパチンコ産業と外食チェーン産業ばかりだった。


親はそういった経済状況、社会状況、就職状況というものをよく解っていないのに、工場でも飛び込み営業でも、とりあえず家から通えそうで、健康保険とか最低限のものはありそうで、未経験可で、正社員、株式会社ならはしから赤マルを付けていった。

それと事務はラクだからとか、大卒だから事務できるでしょ、とか、事務がお気に入りで推奨してきたが、そもそも一般事務というのはその募集は主に女であり、この頃男女雇用機会均等法改正とやらで、性別を限定しての募集というのは禁止になったのでその表記は無かったが、求人記事と一緒に添付された絵は明らかに女性のみであり、それは男はいらんということを意味していた。

そういうことも解らず、または理解しようとせず、毎週毎週とにかく数枚の求人折込広告にいくつか赤マルが付いており、朝飯を食べながらそれら赤マルに目を通し、まずロクな会社が無かったが、これはこういう理由で俺には無理だからとか、これにはこの資格が無いとダメみたいよ、とか、中にはDQN企業にありがちだが毎週のように募集記事が載っており、先週ここはダメだからと説明したばかりなのにまた同じ企業に赤マルが付いていたりして、そういった説明を毎週毎週いちいち母に説明しなくてはならなかった。


しかしタダ飯喰らってる分際でそんな断わってばかりだと母もイライラして機嫌が悪くなり、ひとつ屋根の下ですごく険悪なムードになるので、まったく就職したくない会社でも、その仕事の内容はともかく条件が並なら、親への就活してるよアピールのためもあって履歴書を送ったり、ときには流れで面接に行ったりもした。

母は自分の息子が、根暗で口ベタでコミュ障で無愛想なブサイクで嫌われ気質であり、それが過去学生生活を送ってきた上でも深刻な障壁となってきたということをまったく理解していないようで、ちょくちょく営業系の求人にも赤マルが付いていたが、中でも「新規営業エリア拡大のため正社員募集!」みたいな、つまりは未知の土地で飛び込み営業という、DQN臭プンプンの、俺の気質とはまったく正反対の記事に赤マルを付け、とにかく履歴書出せと強く言ってきた。

もう秋も深まる季節に差し掛かっており、母のイライラもピークに達していた。

もうそんなDQN臭プンプンだから適当に書いた履歴書なのに送った直後にその会社から直接電話が掛かってきて、明日面接来れるか、と。

で面接に行ってみれば、ワンフロアがコンビニの半分くらいしかない面積の、3階建てのビルがその会社で、1階は使用していなくて物置代わりにされており、そこでそこの50代くらいの支店長とやらとツーマンで面接し、志望動機など聞かれることはなくほとんど一方的に会社と仕事の説明をさらっとされて、来月から来てくれ、と。

最悪だ。どう考えても俺の気質と職業がミスマッチ過ぎる。
まさか俺が最も忌み嫌う飛び込み営業職に就こうとは。

取り扱う商品は詳しくは書けないが、それが一般家庭ではなく企業向けのものだったのでそこがせめてもの救いといえば救いだが、まったくここの会社の名前を知らない土地でアポ無し飛込み営業でこの商品を売り歩くのが俺の与えられた使命だった。


入社して1ヶ月間は研修期間で営業車で先輩に連れられて得意先などを回るのだが、地獄だった。
仕事がというよりも、1日中見知らぬ先輩と二人っきりというのが地獄だった。
車の中で、なにをしゃべっていいのかもわからないし、仕事のことよりもそっちばかりに気を遣ってしまう。
昼飯を食べるのも当然一緒だし、これといった趣味や特技もなく女遍歴もほとんどなく、気の利いたようなことをひとつ言えない俺にとってこれは地獄以外のなにものでもなかった。

それから最悪なのが、俺のいる10人くらいのチームのリーダー、課長がこの会社の社長の息子だということだ。

典型的な同族経営、DQN企業。いずれは社長になるであろうこいつが何をやっても許され、営業成績がどうであろうとこいつに気に入れられなければ未来は無く、どんな無理難題を押し付けられるのだろうと恐怖した。

忘年会のときに「歌えッ!」と鋭い上目遣いで俺にカラオケを強要してきたときにその片鱗を見た。

ガタイが良く、声も大きく張りがあり、体育会系で俺とは真逆だった。
営業マンとしてはそういうのがむしろ理想なのだろう。


年内一杯地獄が続いたが、心身ともにだいぶやつれてきたころにゴングが鳴り、1ラウンド終了のインターバルのごとく正月休みに助けられ、年が明け、一人立ちをすることになった。

俺に与えられた新規開拓エリアは、会社から車で2時間も掛かるような糞田舎であり、朝礼が終わり早めに準備して会社を出ても、現地に着くのは昼前になってしまう。

昼時など営業はできないので昼飯を食ってから営業ということになるが、眠くなるし慣れない運転などで疲れてそのまま眠ってしまい、目が覚めたらあたりが真っ暗で、なにもせず帰社なんてこともあった。

というかそもそもこんな地平線まで田んぼしかないような糞田舎で、飛び込む物件などろくになく、その物件探しがまず難儀した。

そんな中街道沿いの比較的店舗が集まってる地区や、モールとはいえないまでもいくつかテナントが入るようなショッピングセンターの各店舗に手当たり次第飛び込むわけだが、飛び込み営業はやはりドキドキで舌も回らず表情も乏しい俺にはやはり不向きであると思ったが、やる気が無いながらもその会社のニーズがたまたまこの商品に合ったのか、2週間で3つ契約ができた。

といってもたかだか数万円の利益であり、俺のトーク力も糞もない、ただ同業他社より安いのと、俺が割引しまくって契約できただけであった。


この頃、なぜだか呼吸が苦しくなることがあった。この時期禁煙していたのだが、痰を吐いてみると黒いものが混じっていた。

特に会社帰りにひどくなることが多かった。理由はわからなかったが、あるとき顔をタオルで拭いたときにタオルが真っ黒になった。

原因は俺が使用してる会社の営業車だった。
もう20万キロ以上も乗っているボロボロのマニュアル車だった。
どこかに穴が開いており、排気のススが車内に入り込んでいるのだった。
そいつを俺は半日中吸い続けていた。


DQNはやはりDQNだった。俺は2ヶ月でこの会社を辞めた。契約してくれた客に代金を回収しに行くこともなく。

その息子は社長にはなれなかった。数年前この会社が多額の借金を抱えて倒産したことをネットで知った。


その後からだのだるさが抜けなくて念のため病院で検査したり、精神的ショックなどで就職活動など手に付かなかった。

バイトすらやる気が起きず、ダラダラと春頃まで過ごし、少し元気になってきたところでまたスロットに手を出した。

こっちでも食える店があるのがわかった。親には週休2日制のバイトをしばらくやると嘘をつき、毎朝律儀に決まった時間に家を出て、パチンコ屋に向かい、いい台に座れればそのまま終日、なければ自転車で数キロ先の店を行き来し、とにかく夜の決まった時間までは家には帰れなかった。

大学生のときよりも真面目に取り組んでいた。毎月コンスタントに10~20万は稼ぎ、うち3万は家に入れていた。もちろんバイト代として。


この年は俺25歳の年だった。秋も深まり、20代後半に差し掛かり、おのずと危機感も湧いてきた。

11月できっぱりバイト(スロット)をやめ、12月から就職活動に専念することを親に宣言した。

就職情報誌を買い漁り、地元だけではなく都内など色々な場所のハローワークに出掛けた。
それと同時に、長い期間家族以外の誰とも会話していなかったので、対人能力と対話能力のリハビリもこめて派遣会社に登録して週1,2くらいで色々な日雇いのバイトをやった。

年が明け、冬休みになると日雇いバイトの現場では大学生も多く見られた。
このとき俺は25歳であったが、今の俺から見れば25歳も十分若者であるが、そのとき25歳の俺から見た大学生というのは、このとき初めて大学生というのがえらく幼く見えた。
つい最近まで自分も向こう側の人間だったはずなのに。

もともと知り合いなのか、この現場で知り合いになったのか、その集合場所では大学生と思われる若者同士が馴れ合ったタメグチ口調で雑談していた。

点呼や仕事の内容についての説明などで、少なからずその先人の若者達と会話を交わさなければならないのだが、その大学生風の先人たちは俺と同じようなこの現場の新参者の大学生風との接し方と俺との接し方とは違っていた。

なんというか、若者同士のフランクな接し方ではなく、年上に対するどこか遠慮の入った終始敬語の接し方であった。

この頃長い期間の無職・パチスロ生活で対人・対話能力値は最低であり、人とろくに目を合わせて挨拶すらできない状態になっており、その廃人オーラを察してそういう対応だったのかもしれんが、しかし俺は明らかに自分の世代がひとつ上にスライドしたことを自覚し、相手もまたその距離感を把握した上での態度だったはずだった。

彼らとは時間のラインが、共有してる時間のものさしが違う、そう感じた。

彼らの下にあるものさしは、若々しく黄緑掛かっており、柔軟にたわみ、しなっていた。
俺の下にあるものさしは、すでにくすんだおうど色をしており、なにかものが当たれば簡単にパキッと割れてしまいそうなくらいに頑固に硬直しており、後ろに刻まれた目盛の上にはなにを記されるでもなく空白ばかりが目立ち、また前方には目盛すら記されていなかった。





【2012/04/12 11:31】 | 自己紹介
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タンクローリーやりたい
タンクローリーやる前に大型トラックで修行することにしました。
やはり12mボディでの左折はなかなか難しいですね。
狭い所はとなりの車線に膨らまないと曲がれませんし。
死角が多くて確認が大変です。

十分経験積んでから非公認教習所と試験場でけん引一種狙います。

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