まったくモテない41歳独身底辺男が流されるがままに適当に生きながらもがき足掻く日記
さすがにもうこれ以上借金はできないので、今回はかなり慎重になっていた。

まず大学のパソコン室に篭ってスロットの情報を収集し研究した。
この頃のネット環境というのは、一般家庭ではまだほとんど浸透しておらず、今では常識である常時接続は大学などの教育機関や企業などに限られていた。

なので、ネットで集めた情報というのはホールのライバル(客)が知りえないものも多く、その効果は抜群だった。

スロットブログではないので詳しいことは割愛させていただくが、8月はイベントなどにも恵まれ、結局この月の収支は-15万から+10万ほどまでになっていた。


ここでおかしなゆがんだ自信がついた。虚構の手ごたえがあった。バイトなどしなくともこれなら十分やっていけるのではないか、と思った。


事実、その後卒業する3月までスロットの収支は毎月10万前後は稼いでおり、煩わしい人間関係からも解放され、授業にもきちんと出席し、ようやくここにきてどこか心に余裕ができてきた。

かといって就職活動はしていなかったし、もうそれは卒業して実家に帰ってからそっちで探そうと思っていた。
それに多少スロットの自信があったとしてもやはり相手はギャンブルなわけで、時間さえあればホールに行って店の状況などをチェックしなければならず、とても就職活動どころではなかった。


就職活動なんかよりも、残り少ない大学生活、残り少ない青春、その青春のうちに一度くらい女の子と遊んだり付き合ってみたいという思いの方が強かった。


この頃の携帯電話といえばネット環境などまだ無く、メールにようやく漢字が使えるようになったとかそういうレベルであった。

そんな中、声による伝言サービスみたいなものがあった。
これはまんま、ダイヤルQ2とかツーショットダイヤルなんかの伝言ダイヤルと一緒で、今考えるとよくこんなサービスが電話会社で公に、しかも無料で行われていたなあと思う。

そいつを利用してみることにした。
今みたいに写メなど無く、その判断は声とプロフィールのみだったので、23歳という若さとその声、大学生ということで反応はなかなか良かった。

10人くらいの女と会った。そのうち20歳前後の2人とは一応付き合うという形にしておいて会った当日か2回目までにセックスをした。(体型・容姿ともに中)

といっても、会うまでに数回のメールのやりとりや電話、会ったときも映画やらなんやらと細かく連れて行ってからのセックスなので(しかも律儀に付き合うという形をとってからの)、ナンパという感じではない。

まあ俺もブサイクなりにもその若さのみからくるフェロモンみたいなものは出ていたのかもしれない。
10人中、9人目、10人目と連続してヤれた。

よく俺みたいなブサメンが若い子とヤれたなあと思うが、今考えてみると、8人目までで女に対してある程度慣れることができて、それからは今みたいに特に会話に窮するということもなく、まあ同世代の若者同士だからというのもあったけど、適当に身を任せておけばよかった。


そのうち1人とはその後2,3回会って別れ、もう1人とは夏前に俺のダメっぷりに愛想をつかれるというかたちで別れた。

しかし今考えてみればあの頃が俺の男として一番華があった時代で、せっかく調子に乗ってきたのだからそのままナンパを続ければよかったのだが、なかなかそういうわけにもいかない理由があり、3月が来て大学を無事卒業ということになり、と同時に大学生という肩書きは無くなって5年振りの職業=無職になり、片田舎にある実家に帰ることになった。


実家に帰ってもその怠惰な生活にどっぷり浸かりきった体は相変わらず働く気も起きず、しかし親(母)も同居なので、日に日に親からの圧力が増していった。

実家に戻ってからは母の監視もありスロットで凌ぐということはできず(借金は当年5月にすべて返済)、月に2,3回ある下水道やら河川なんかの水質調査のバイトで凌いでいた。


日増しに親の圧力は増す。日曜日が来るのが憂鬱だった。それは日曜の朝刊に求人折込広告が入っているからだ。

そのうち日曜日朝起きると、テーブルの上に母が勝手に会社を選んでところどころに赤ペンでマルが付けられた求人折込広告が置かれるようになった。


2000年前後というのは、就職氷河期と言われる時代であり、中でも2000年というのはその中の谷、超氷河期と言われる時期であった。

ただでさえそんな時期なのに、こんな片田舎の求人などロクなものがなかった。

怪しい工場やご提案という名の飛び込み営業、外食チェーン、パチンコ屋店員、掃除、若さと元気が自慢のベンチャー企業、そんなのばかりだった。

というか、よくよく考えてみれば、景気が良かろうが悪かろうが、こんな広大な田んぼが広がるような土地のどこを見渡してもスーツを着たサラリーマンが通うような会社もビルも建っていなく、そもそも大学を出て間もない若者が人並に夢を持って働けるようなまともな企業などなかった。

だが母は、もう大学在学中から「就職したら当然実家から通うんでしょ」みたいな、俺のことをアテにしているというか、そういうニュアンスの圧力を掛けており、なるべくこっちで探しなさい、親と同居推奨みたいな、そんな感じであった。

一応大学3年の春休みに地元の県の、とあるひなびた地方都市で田舎臭い合同説明会に参加したことはあるが、各ブースは、大不況の中上昇気流だったパチンコ産業と外食チェーン産業ばかりだった。


親はそういった経済状況、社会状況、就職状況というものをよく解っていないのに、工場でも飛び込み営業でも、とりあえず家から通えそうで、健康保険とか最低限のものはありそうで、未経験可で、正社員、株式会社ならはしから赤マルを付けていった。

それと事務はラクだからとか、大卒だから事務できるでしょ、とか、事務がお気に入りで推奨してきたが、そもそも一般事務というのはその募集は主に女であり、この頃男女雇用機会均等法改正とやらで、性別を限定しての募集というのは禁止になったのでその表記は無かったが、求人記事と一緒に添付された絵は明らかに女性のみであり、それは男はいらんということを意味していた。

そういうことも解らず、または理解しようとせず、毎週毎週とにかく数枚の求人折込広告にいくつか赤マルが付いており、朝飯を食べながらそれら赤マルに目を通し、まずロクな会社が無かったが、これはこういう理由で俺には無理だからとか、これにはこの資格が無いとダメみたいよ、とか、中にはDQN企業にありがちだが毎週のように募集記事が載っており、先週ここはダメだからと説明したばかりなのにまた同じ企業に赤マルが付いていたりして、そういった説明を毎週毎週いちいち母に説明しなくてはならなかった。


しかしタダ飯喰らってる分際でそんな断わってばかりだと母もイライラして機嫌が悪くなり、ひとつ屋根の下ですごく険悪なムードになるので、まったく就職したくない会社でも、その仕事の内容はともかく条件が並なら、親への就活してるよアピールのためもあって履歴書を送ったり、ときには流れで面接に行ったりもした。

母は自分の息子が、根暗で口ベタでコミュ障で無愛想なブサイクで嫌われ気質であり、それが過去学生生活を送ってきた上でも深刻な障壁となってきたということをまったく理解していないようで、ちょくちょく営業系の求人にも赤マルが付いていたが、中でも「新規営業エリア拡大のため正社員募集!」みたいな、つまりは未知の土地で飛び込み営業という、DQN臭プンプンの、俺の気質とはまったく正反対の記事に赤マルを付け、とにかく履歴書出せと強く言ってきた。

もう秋も深まる季節に差し掛かっており、母のイライラもピークに達していた。

もうそんなDQN臭プンプンだから適当に書いた履歴書なのに送った直後にその会社から直接電話が掛かってきて、明日面接来れるか、と。

で面接に行ってみれば、ワンフロアがコンビニの半分くらいしかない面積の、3階建てのビルがその会社で、1階は使用していなくて物置代わりにされており、そこでそこの50代くらいの支店長とやらとツーマンで面接し、志望動機など聞かれることはなくほとんど一方的に会社と仕事の説明をさらっとされて、来月から来てくれ、と。

最悪だ。どう考えても俺の気質と職業がミスマッチ過ぎる。
まさか俺が最も忌み嫌う飛び込み営業職に就こうとは。

取り扱う商品は詳しくは書けないが、それが一般家庭ではなく企業向けのものだったのでそこがせめてもの救いといえば救いだが、まったくここの会社の名前を知らない土地でアポ無し飛込み営業でこの商品を売り歩くのが俺の与えられた使命だった。


入社して1ヶ月間は研修期間で営業車で先輩に連れられて得意先などを回るのだが、地獄だった。
仕事がというよりも、1日中見知らぬ先輩と二人っきりというのが地獄だった。
車の中で、なにをしゃべっていいのかもわからないし、仕事のことよりもそっちばかりに気を遣ってしまう。
昼飯を食べるのも当然一緒だし、これといった趣味や特技もなく女遍歴もほとんどなく、気の利いたようなことをひとつ言えない俺にとってこれは地獄以外のなにものでもなかった。

それから最悪なのが、俺のいる10人くらいのチームのリーダー、課長がこの会社の社長の息子だということだ。

典型的な同族経営、DQN企業。いずれは社長になるであろうこいつが何をやっても許され、営業成績がどうであろうとこいつに気に入れられなければ未来は無く、どんな無理難題を押し付けられるのだろうと恐怖した。

忘年会のときに「歌えッ!」と鋭い上目遣いで俺にカラオケを強要してきたときにその片鱗を見た。

ガタイが良く、声も大きく張りがあり、体育会系で俺とは真逆だった。
営業マンとしてはそういうのがむしろ理想なのだろう。


年内一杯地獄が続いたが、心身ともにだいぶやつれてきたころにゴングが鳴り、1ラウンド終了のインターバルのごとく正月休みに助けられ、年が明け、一人立ちをすることになった。

俺に与えられた新規開拓エリアは、会社から車で2時間も掛かるような糞田舎であり、朝礼が終わり早めに準備して会社を出ても、現地に着くのは昼前になってしまう。

昼時など営業はできないので昼飯を食ってから営業ということになるが、眠くなるし慣れない運転などで疲れてそのまま眠ってしまい、目が覚めたらあたりが真っ暗で、なにもせず帰社なんてこともあった。

というかそもそもこんな地平線まで田んぼしかないような糞田舎で、飛び込む物件などろくになく、その物件探しがまず難儀した。

そんな中街道沿いの比較的店舗が集まってる地区や、モールとはいえないまでもいくつかテナントが入るようなショッピングセンターの各店舗に手当たり次第飛び込むわけだが、飛び込み営業はやはりドキドキで舌も回らず表情も乏しい俺にはやはり不向きであると思ったが、やる気が無いながらもその会社のニーズがたまたまこの商品に合ったのか、2週間で3つ契約ができた。

といってもたかだか数万円の利益であり、俺のトーク力も糞もない、ただ同業他社より安いのと、俺が割引しまくって契約できただけであった。


この頃、なぜだか呼吸が苦しくなることがあった。この時期禁煙していたのだが、痰を吐いてみると黒いものが混じっていた。

特に会社帰りにひどくなることが多かった。理由はわからなかったが、あるとき顔をタオルで拭いたときにタオルが真っ黒になった。

原因は俺が使用してる会社の営業車だった。
もう20万キロ以上も乗っているボロボロのマニュアル車だった。
どこかに穴が開いており、排気のススが車内に入り込んでいるのだった。
そいつを俺は半日中吸い続けていた。


DQNはやはりDQNだった。俺は2ヶ月でこの会社を辞めた。契約してくれた客に代金を回収しに行くこともなく。

その息子は社長にはなれなかった。数年前この会社が多額の借金を抱えて倒産したことをネットで知った。


その後からだのだるさが抜けなくて念のため病院で検査したり、精神的ショックなどで就職活動など手に付かなかった。

バイトすらやる気が起きず、ダラダラと春頃まで過ごし、少し元気になってきたところでまたスロットに手を出した。

こっちでも食える店があるのがわかった。親には週休2日制のバイトをしばらくやると嘘をつき、毎朝律儀に決まった時間に家を出て、パチンコ屋に向かい、いい台に座れればそのまま終日、なければ自転車で数キロ先の店を行き来し、とにかく夜の決まった時間までは家には帰れなかった。

大学生のときよりも真面目に取り組んでいた。毎月コンスタントに10~20万は稼ぎ、うち3万は家に入れていた。もちろんバイト代として。


この年は俺25歳の年だった。秋も深まり、20代後半に差し掛かり、おのずと危機感も湧いてきた。

11月できっぱりバイト(スロット)をやめ、12月から就職活動に専念することを親に宣言した。

就職情報誌を買い漁り、地元だけではなく都内など色々な場所のハローワークに出掛けた。
それと同時に、長い期間家族以外の誰とも会話していなかったので、対人能力と対話能力のリハビリもこめて派遣会社に登録して週1,2くらいで色々な日雇いのバイトをやった。

年が明け、冬休みになると日雇いバイトの現場では大学生も多く見られた。
このとき俺は25歳であったが、今の俺から見れば25歳も十分若者であるが、そのとき25歳の俺から見た大学生というのは、このとき初めて大学生というのがえらく幼く見えた。
つい最近まで自分も向こう側の人間だったはずなのに。

もともと知り合いなのか、この現場で知り合いになったのか、その集合場所では大学生と思われる若者同士が馴れ合ったタメグチ口調で雑談していた。

点呼や仕事の内容についての説明などで、少なからずその先人の若者達と会話を交わさなければならないのだが、その大学生風の先人たちは俺と同じようなこの現場の新参者の大学生風との接し方と俺との接し方とは違っていた。

なんというか、若者同士のフランクな接し方ではなく、年上に対するどこか遠慮の入った終始敬語の接し方であった。

この頃長い期間の無職・パチスロ生活で対人・対話能力値は最低であり、人とろくに目を合わせて挨拶すらできない状態になっており、その廃人オーラを察してそういう対応だったのかもしれんが、しかし俺は明らかに自分の世代がひとつ上にスライドしたことを自覚し、相手もまたその距離感を把握した上での態度だったはずだった。

彼らとは時間のラインが、共有してる時間のものさしが違う、そう感じた。

彼らの下にあるものさしは、若々しく黄緑掛かっており、柔軟にたわみ、しなっていた。
俺の下にあるものさしは、すでにくすんだおうど色をしており、なにかものが当たれば簡単にパキッと割れてしまいそうなくらいに頑固に硬直しており、後ろに刻まれた目盛の上にはなにを記されるでもなく空白ばかりが目立ち、また前方には目盛すら記されていなかった。




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【2012/04/12 11:31】 | 自己紹介
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タンクローリーやりたい
タンクローリーやる前に大型トラックで修行することにしました。
やはり12mボディでの左折はなかなか難しいですね。
狭い所はとなりの車線に膨らまないと曲がれませんし。
死角が多くて確認が大変です。

十分経験積んでから非公認教習所と試験場でけん引一種狙います。

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7月でバイトを辞め、8月からスロットで凌いでいくことにした。

たいした知識、技術の無いまま闇雲に打ち、最初の3日で15万負けた。
貯金も無く、マルイのキャッシングもすでに限度額に達していた。
手元には500円も無かったと思う。

7月分のバイトの給料日はまだあと10日以上あり、このまま何も手を打たなければ餓死する危険性も出てきた。

でも、普通なら必死に就職活動をしなければならないこの時期に、親に事情を話して金を借りるなんてことはできない。

これはもうとりあえずどこかから金を借りてくるしかないわけだが、この頃はクレジットカードといえばマルイカードしかもっておらず、その頼みの綱も限度額に達していたので、どこから金を調達してくればよいか皆目見当がつかなかった。

学生の頃は自宅にパソコンなどなかったので、とりあえず大学に行きネットで学生が金を借りる方法を検索しまくった。

すると親に知られることがなく金が借りられる、学生ローンなるものがあることを知った。
業者の名前は、まったく聞いたことがないものだ。

この頃はなにかローンと言うと、一度借りるといつの間にか雪だるま式に利息が膨れ上がり、破産に陥るような恐ろしいイメージしかなく、しかもそんな聞いたこともない名前の業者などさらに怪しかったが、しかし背に腹はかえられないのでとりあえず電話してみることにした。


電話してみると色々聞かれた。住所・氏名など自分の情報はもちろん、金を借りる目的や返済計画など。

ネットでそのようなことを聞かれることは事前に調べてあったので、その辺はよどみなく返答することができた。

金の使い道はまさかスロットで生活費が無くなり、その生活費とスロットの種銭にするためなどとは言えないため、就職活動費やそれに関わるスーツ代とかそんな感じで答えたと思う。返済計画もアテのバイトがあるとか言ったと思う。

だが、そんな学生の返済計画だけで金を貸してくれるほど甘くはない。結局は担保がいる。
担保は親だ。この最強の担保があるからこそ、学生ローンの業者は何もしていないような学生にも金を貸すことができる。

ただこの業者は、毎月利息をきちんと支払ってさえいれば親にはこの秘密は守られ、親も自分が担保に入れられたことなど知る由もないのだった。


電話を切り、審査が行われたのだろう、その数時間後に自分の銀行口座に金が振り込まれていた。
はっきりとした金額は覚えてないが、おそらく15万くらい借りたのだと思う。


頭の中だけは立派に若者だった。それは若者に特有の、恐れを知らない恐さがあった。
そして頭の中のどこかでなんとかなると思っていた。それは親に対する甘えでもあった。


(つづく)



【2012/03/18 19:35】 | 自己紹介
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ハーバードナンパスクール佐藤エイチ
ローンは恐いですよね。

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90年代中期というのは、出会い系といえばツーショットダイヤルやテレクラがまだ主流で、今のような数え切れないほどのネットの出会い系がなかったため、出会いを求める女はそのツーショットダイヤルかテレクラに集中し、素人のやるだけの女を探すという意味では今なんかより容易ではあった。

俺はとにかく童貞を捨てたかったため、またはセックスというものがどんなもんだか早く知りたいため、ツーショットダイヤルを利用し、19歳の女と会った。

女は体型は普通で茶髪のショートカット、服装も若い感じ(ちょっとヤンキー風)だったが、老け顔だった。といってもサバを読んでいるわけではない感じだったが、でも中の下もなかった感じだった。

笑顔のない女だった。いや、俺がこの性格に加え緊張して気の利いたことをまったく言えなかったからかもしれない。

緊張しないはずがない。これから車で向かうラブホテルに行くのも初めてなのだから。

余裕を持った会話などできるはずがなかった。

でもとにかく童貞を捨てたかったためホテルに直行し、ヤッた。


女になぜ電話してきたかと聞いたら、暇だったからと答え、またなんとなくこういうことに慣れている感じがした。

もちろん俺は童貞なんだとは言わないが、明らかに向こうの方が余裕があった。

ひとつ印象的だったのが、行為が終わった後「飲みますか?」などと言い、お茶を入れてくれたことだ。

援助で会ったわけではないが、なんかこういうのは金を払わないとマズいんじゃないかという先入観があり、女に1万円を渡した。

女は最初「いらない」と言ったが、俺が「まあいいから」と言って渡した。女は「ありがとう」と言った。


今考えると、そんな笑顔のない女と根暗で口下手な男が出会ってすぐ、よくホテルまでもっていったなと思うが、あの時なにを喋ったかなどもはや何も覚えていない。

でもおそらく、出会う前のツーショットダイヤルで話している段階で、相手の特徴などを言い合い、もうヤることを前提に会おうってことになっていたのだろう。

というか当時ツーショットダイヤル自体が、「会う=ヤる」というシステムだったのだろう。


これが俺の初体験だ。
高校や大学時代に俺の部屋で彼女の部屋でとかそういう甘酸っぱい薫りは微塵も無い。
二十歳の初体験の時点ですでに退廃的な思い出の中にいた。


4月になると実家を出て、大学の近くで念願の一人暮らしをすることになった。

毎月仕送りをしてもらってはいたが、家賃と光熱費分くらいだったので、バイトをしないと食っていけなかった。

この街はそこそこ大きいが、周辺にいくつか大学が点在し、そのため学生も多く、ここでもバイト先を探すのに難儀した。

なるべく接客しない仕事を探して、ゲームセンターのバイトの面接を受けるが落とされた。

ゲームセンターですら落とされた。
もう俺みたいなのは少しでも客と接触のある仕事は無理だということか。


母はなんでもいいから早くバイトを探せとかいうが、母は自分の息子の性格と外見、そういう性格と外見が世間ではどう映るのか、社会人として受け入れられるものなのかということをまったくわかっていない。

しかしバイトをしないことには食っていけないので、周辺の工場などにも問い合わせてみるが、スポット的な学生バイトだと厳しいというのがほとんどだった。

結局、ゲーセンといっても今みたいな小奇麗なアミューズメントパーク的な、先に面接したようなところではなく、狭くて陰気で夕方になると不良がたむろして室内が煙草の煙でモヤ掛かるような店でバイトすることになった。

一人暮らししてからバイトが決まるまで、2ヶ月もかかった。


この店では嫌われた。今考えれば自分の人見知りからくる無愛想で表情に乏しい態度、低い対話能力にも大きな原因があると思うが、しかし出会って5秒でろくにしゃべってもないのに嫌悪の目で見られ、そのまま嫌われることもあった。

一旦その場で嫌われれば後から入ってきた新人バイトにもそれは伝播し、店員と仲の良い客などにも嫌われた。
2つ年下の先輩に手をあげられたこともあった。


なぜここまで嫌われるのかわからなかった。当時から自分がつまらなくて暗い性格であるということは自覚していたが、出会って5秒で嫌われるとか、それだけが原因という感じもしなかった。

やはり己の容姿のせいにせざるをえなかったし、実際二十歳前後の年頃というのはそれ以前の高校生なんかより、または人生の中でも一番他人を外見で判断する傾向があるのは確かであり、イケてるかイケてないかの判断基準は男も女も外見が大きなウエイトを占めており、実際俺もそうだった。

だから一層自分のダメさ加減に滅入り、どんどん内へ内へと閉じ篭り、色の無い方へ色の無い方へと逃げ回っていた。


しかし嫌われつつも、辞めたら食っていけなくなるので我慢して続けていたが、休憩明けにトイレに行き、それをなんで休憩中にトイレに行っておかないんだと店長に指摘され、クビになった。

遅刻などもせず、仕事に対するスタンスとしては自分は結構真面目な方だと思っていただけに、このクビはちょっとショックだった。


結局、同僚など周りから嫌われる体質の奴は、上司など上の人間からも同じように嫌われるのだ。

同僚や周りから好かれる奴というのは愛嬌があり、いやもっと俺目線で突っ込んだことを言わせてもらえば、努力して身に付けた営業スマイルでは到底敵わない、その人の素質ともいえる外見と育った環境からくる生まれもっての愛嬌というものがあり、中学時代、いや小学生の頃からそういった素質が自分には無いことは薄々勘付いてはいたが、中学に入って部活などに入るといよいよそれが単なる勘ではないことを思い知らされ、その先にある今まででは考えられなかったような赤の他人と接する環境、バイトや社会人になったときに、そのアドバンテージの大きさを痛感し、羨み、妬み、憂い、心のどこかで自分の親に恨みの念すら湧いてくるのだった。


ちょっと理不尽だとは思ったが、ここではろくな思い出がないし、周りの人間も嫌いな奴ばかりだったので、何も言わずに素直に辞めた。


またバイトを探す。今回は割りとすぐ決まった。自宅から自転車で行ける距離にある小さなパチンコ店だ。

ここは入ってまず教育指導係とか言って俺のことを最初からスパルタ指導してきた社員がDQNだった。
俺は当時22歳でそいつは32か33歳だった。

パチンコ屋の2階の部屋を借りて住んでおり、中卒で前職ピンサロの店員、背が小さくて風貌や雰囲気が水道橋博士にそっくりで、小学生染みた負けん気があって、ガキ大将の手下のお調子者なイジメっ子みたいな、そういう奴だった。

色白で大人しくて無愛想で背が高いがゆえに目に付き動きがもっさりに見えてしまう俺は奴の格好のスパルタ指導の的となった。

また、そうは言っても根は真面目で遅刻などもせず言われたことは真面目にやる俺は入って数ヶ月で景品カウンターや両替機の金の回収など金周りのことを主任(30歳手前くらい)から任されるようになっていたが、水道橋は社員のくせにカウンターに入ることも両替機の金の回収も許されておらず、水道橋としてはそれがまたおもしろくなかったに違いなく、俺の顔を見ては難癖を付ける始末であった。

水道橋だけではなく、そこでバイトしていた大学生などの若い連中も、ゲームセンターの時と同様、いじめとまではいかないが、やはり俺に対しては邪険に接する人が多かった。

以前の掃除のバイトのときも、社員やバイトの先輩で俺に対しそういった態度をとってくる人が何人かいた。


この頃パチンコ屋の客で、スロットで生活してるという人に初めて遭遇し、衝撃を受けた。

うちの店は設定がほとんどが1か2、良くて3のボッタクリ店であったが、ある攻略法で設定が1でも期待収支がプラスどころか現在設置されているスロットの最高設定の機械割に匹敵する台が設置されており、10万円以上抜いていった。


この時、スロットに対する知識もほとんどない、目押しすらろくにできない、ただ現にスロットで生活しているという人を目の当たりにしたという事実だけで、これはもしかしたらバイトなどせずに稼げるかもしれないと、なぜか根拠の無い自信が湧いてきた。

それにもういい加減人間関係にも嫌になっていた。どこにいっても印象が悪い、嫌われる、当然のことながら女にもモテない、年齢だけ見れば大いに若者で、ただ適当に生きているだけで楽しい時期のはずなのに、それどころか生活のほとんどは苦痛以外のなにものでもなかった。


7月にパチンコ店のバイトを辞めた。大学卒業までスロットで凌いでいくことに決めた。

主任は俺がこの店に来た後に系列店からこの店に赴任してきたのだが、ミスチルの桜井氏のような風貌でやや茶髪で、背は高くはなかったがイケメンの部類であり、当時の俺とは一見対極の人間だと思っていたが、俺に対しては至極普通に接してくれ、両替機など金周りのことを任せてくれたのも主任だった。

主任は主任だけあってさりげなく店の状況や人間関係などをよく把握しており、水道橋などは年上の社員であってもおまえ呼ばわりし、俺の出勤最終日の終礼のときには5,6人の従業員の前で俺へのお疲れ様の挨拶をしてくれた。

その際に俺は嫌われていたから誰も一緒にお疲れ様でしたの挨拶をしてくれなかったが、主任が「ほら」みたいな感じで隣りにいた俺の先輩(といっても同い年)のバイトをぽんと促し、一斉にお疲れ様でした、みたいな感じになった。

このとき、いくら気に食わない奴がいたとしても、そいつが辞めるときくらい形式的にでも、社会人としてお疲れ様くらい言ってくれてもいいだろ、俺ってそんなにも嫌われていたのかと思って悲しくなったが、挨拶が終わって主任と帰り掛けに二人だけになったときに、

「〇〇君(俺)もいろいろあって大変だったと思うけど、これからもがんばって」

などと言われ、なぜだか勝手に俺の目が熱く充血していくのが鏡を見なくとも確認できた。


その時1999年、23歳の年だった。

多くの同級生たちはすでに社会に出てそれなりの責任を負いながら働いているはずだった。

そんな同級生たちが今まさに社会の厳しさの洗礼を受け、揉みくちゃにされている最中に俺はバイトすら辞めてこれからどうスロットで食っていこうかとかそんなことを考えていた。

大学4年であったが1年次の落としまくった単位が響いて、卒業できるかどうかギリギリであった。
大学の数少ない知り合いたちはすでに卒業に必要な単位をほぼ取得しており、大学で会うことはなかった。

大学の授業とバイト、そしてこれから始まる新たな稼業で就職活動どころではなく、というかこの期に及んで自分がやりたい仕事などなく、またはわからなくて、それに文系学部ではあったがスーツを着てサラリーマンなどやりたくなかった。

この期に及んで、まだ社会人になりたくなかった。

まだ全然、全然何もしていない。若者らしい、大学生らしい楽しい思い出がなにひとつ見当たらなかった。
そんな状態で、どの年代から眺めてもつまらなそうでただつらいだけにしか見えない、常になにかを我慢してるだけにしか見えないサラリーマンになんかなりたくなかった。


若者を体感したかった。若者の思い出が欲しかった。


(つづく)



【2012/03/08 21:54】 | 自己紹介
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ハーバードナンパスクール佐藤エイチ
青春っていいですよね♪

文章力
文章力ありますよね。書籍化したら面白そうです。

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そんなだから1995年、19歳の記憶というものがほとんど無い。

その春、別に行きたくもなかった地方の三流大学に行くことになった。
一生消えることのないコンプレックスがまたひとつ加わった。

その大学へは実家から確かdoor to doorで2時間くらい掛かった。
それでサークルだのバイトだのやってる暇はなく、それでも途中下車駅や地元の駅周辺などでコンビニのバイトの面接とか受けるが、ことごとく落とされた(対人能力の欠落を見抜かれたのが主な原因だろう)。

そんなだから大学で友人などできるはずもなく、大学に行って講義に出て帰るだけみたいな、浪人時代の予備校の授業を受ける感覚となんら変わりはなかった。

友人というか、会えば挨拶くらいは交わすというレベルの知り合いは、この大学では1年次からゼミがあり、大学入学前にオリエンテーションと称してある場所に一泊二日で研修(といっても何をするでもなく顔見せというか、友達作りが目的みたいなもの)したときに一緒に寝泊りした2,3人だけであり、結局卒業までこれ以上増えることはなく、授業やテストの情報を得たり、ノートの貸し借りということがごく限られた授業でしかできなかったため、そういった意味では単位を取得するのに苦労した。


とくに目的もなく大学に入った。とくに学びたいこともなく、将来とくにやりたい仕事もなく。

ろくに大学のことなど調べもせずただ漠然と、とりあえず大学を出ておけば少しくらい就職には有利、くらいにしか思っていなかった。

親は親で大学がどういうところか、あるいは何を学ぶところかもよく知りもせず、また就職したときに大卒と高卒じゃ給料が違ってくるだのといった、高度経済成長期の古き良き日本の典型的な終身雇用企業のイメージを持っているくらいで、今の時代はとりあえず大学くらいは出ておかないと、みたいな今となってはとうに時代遅れの認識でしかなかった。


とは言うものの、大学時代、若いときにこれだけはやっておけとか、できるだけ色々な場所に行っておけとか、色々な人と出会っておけみたいな、人生の先輩としての若者へのアドバイス的なことは一切言うことはなく、夏休みに入ると親はしきりとバイトしろと言い出した。
高校の頃はあれほどバイトはダメと言っていたくせに。

俺も金が無いし、できることならバイトをしたかったが、実家が田舎なもので周囲でバイトを募集しているところもなかなか無く、たまに募集しているコンビニに応募してみても、地方のコンビニのバイトの競争率が高いんだか、それとも俺が社会不適合者なのかでとにかく採用の電話が来ることはなかった。

ちなみに35歳の現在まで本物のレジを触ったことは一度も無い。

結局こういう人間はダークな仕事しかなかった。まだ青春真っ只中の20歳なのに、夜な夜な閉店後の店舗の掃除とか、夜な夜な公共の電柱に雀荘の広告のビラ張りとかそういうリタイヤした日雇い労働者がやるようなバイトしか採用されなかった。


夏が終わるとまた大学の授業が始まるわけだが、とにかく女との接点が無かったし、俺から接点を持つ術もなかった。

というか、こんな三流大だから周りにいる女はほとんど現役、つまりひとつ年下、19歳なわけで、それでもなにか自分よりとてつもなく大人に見えた。

そんな自分よりも大人でキラキラ輝きまくってる女に、地味でブサイクでデクノボウなだけの俺が何の理由もなくそんな女に声を掛けられるはずもないし、掛けられるわけもなかった。


なにか違和感があった。自分が彼女ら、または彼らと同年代という感覚がなかった。

自分が「若者」という感じがしなかった。容姿が老けていたことと、服装がダサかったというのもあっただろうが、もっと根本的なものがすでに若者ではなかった。

自分がどのようにして「若者」になればいいのかもわからなかった。


また、急速に茶髪が市民権を得たのもこの頃で、テレビの女子アナなんかにまでみんな茶髪になっていったのもこの頃からだったと思う。

日焼けサロンもこの頃やたらあちこちにできていた。男のロン毛、ピアスも流行った。
つまりそういういわゆるチャラ男がやたらモテた時代であった。

チャラ男の要素のすべての真逆をいっていた俺は当然箸にも棒にもかからなかった。
それに加え、すでに自分の容姿に対するどこか諦めがあり、この頃の俺は男も結局容姿がいい奴だけがモテるという考えで凝り固まっており、恋愛など端から放棄していた。

とにかく同世代の若い女がとてつもなく遠い存在に感じた。


この時代繁華街ではナンパは今なんかよりももっと頻繁に行われていた。
各地にいわゆる引っ掛け橋のような、男も女もナンパ目的で来る場所、明確なナンパスポットというものが存在していた。

または新宿や池袋など、夜になると今とは比べ物にならないくらい、ナンパ師が現れナンパが行われていた。

その頃の俺は、そんな行為を横目にナンパとはまったく無縁の存在だと思っていたし、ナンパができる人間は並以上の容姿、それと並以上のユーモアと対話能力が備わったものだけができる、いわば選ばれし者だけができる特権だと思っており、そうではない人間が路上でナンパなど行うことは許されない行為だと思っていた。

まさかその地で10年以上も後、自分が三十路も中盤になった頃にナンパをしていようなど、この頃の俺はまず夢にも思っていなかった。


1年修了時、すでに大学の単位はギリギリであった。
大学まで遠いせいもあって、1限の授業などほとんど出られなかったし、早起きしてまで出る情熱もなかった。

けっこう単位を落としまくった。ギリギリ2年には上がれるがそれから先4年までみっちり単位を取らないと卒業できないレベルであった。

しょうがなく、いや、むしろこれをいい口実として、親から大学の近くで一人暮らしをさせてもらう承諾を得た。
もちろん大学に通いやすくなるという理由が一番だが、やはり一人暮らしというものに憧れもあった。


この時点ではまだ、童貞であった。
20歳にして童貞、10代で経験することができなかった。
こんな冷めた俺でも、少なくとも焦る気持ちもあった。


(つづく)



【2012/02/29 16:21】 | 自己紹介
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はじめまして。
内容が深いですね。小説を読んでいる感覚です^^
つづきが気になります(>_<)


たまたま
たしかに、おとなしくて真面目な子って将来小さな挫折が大きな傷になったりしますよね。
あと、大学はたしかに行かなくてもいいですよね。特に文系なんか要らないです。


ハーバードナンパスクール佐藤エイチ
続きを楽しみにしていますね♪


タンクローリーに乗りたい
当方、指定教習所で11m大型一種を取得しました。
将来的にタンクローリーを転がすにはどの道が一番でしょうか?

まず大型トラックで経験積む、けん引一種取りに試験場通う、指定教習所でとりあえず取ってしまうなど選択肢があると思います

ちなみにナンパの一発試験なら通ったことあります


ライタン
>皇さん
はじめまして。
ありがとうございます。
実は書きたい記事が溜まっているのですが、時間が無くてなかなか更新できない状態です・・・
できるだけ早く更新していきたいと思います。

>たまたまさん
文系はただ大学に通ってるだけじゃ何も身につきませんからね・・・
遊ぶなら遊ぶで海外行ったりそれこそナンパにいそしんだりと徹底的に遊び倒さないとダメですね。

>佐藤エイチさん
毎度コメントありがとうございます。

>タンクローリーに乗りたいさん
《将来的にタンクローリーを転がすにはどの道が一番でしょうか? 》

とのことですが、まず
・大型一種免許
・けん引免許
・危険物取扱者乙4

を取得してください。
大型一種は持っているということなので、あとの二つを自分で取得しておいてください。

あとは、大型未経験でも採用してくれる会社はありますので、ハローワークやネットで探してみてください。
それらで良い募集がなかったら、ローリーを扱っている運送会社を調べて募集しているかどうか直接電話してしまうのが意外と良い方法です。

ちなみにオイラは大型はまったく未経験から採用されました。

でも、いきなりトレーラーは乗せてもらえないし、乗りこなすのも無理です。あれだけは免許取ってからも多少練習が必要です。

ではがんばってください。



たまたま
いやいや文系で遊んでたら死にますよw
バブル時代はそれで良かったですが、今はその遊んでた連中がリストラされてます。

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(別の記事を書いている途中で青春時代のことを書いていたら予定外に長くなってしまったので、青春編として個別記事にしてみた。)


俺は職場での挨拶ですらどこかぎこちなく、あの子に挨拶しようと思った瞬間から心臓の鼓動が大きくなりやがる。
ただ挨拶するだけなのに。

もう子供の頃からそういう習慣がないからなんだろうな。もう小学生の頃から人見知りの子とそうでない子ってのはくっきり分かれる。

他のクラスなのに関係なくすぐ友達になれちゃうタイプと自分からは話し掛けられないタイプ。
せっかく向こうから話掛けられたとしても人見知りを貫き通す、いつまでもよそよそしい態度を取り続ける(というかうまい応対、付き合い方ができない)タイプ。

俺はもちろん後者。

どこかのタイミングで〇〇デビューとかいって、ちょっと髪を明るく染めたり垢抜けた服装をしたところで、周りの評価や自分の意識が多少は、あるいは一時的に陽の方へと傾くが、根本的な部分はまったく変わっていないので、ちょっと話す関係になればすぐ見抜かれる。

親のせいにはしたくはないが、よく芸能人なんかで芸能界に入ったきっかけは、子供の頃はすごく引っ込み思案で人見知りが激しかったが、それを危惧した親がその人見知りと引っ込み思案の性格を改善するために劇団とか芸能事務所に入れたことがはじまり、みたいなことをよく聞く。

まあしかしそんなのはおそらく稀で、自分の息子が内気で暗かろうがオタクだろうが、学校で問題を起こさず特に落ちこぼれでもなければ、そんな性格について将来を憂いる親の方が少ないのかもしれない。

でもそういう性格というものは、遅くとも10代前半くらいになんとかしておかないと、高校に入ってからではもう手遅れだ。いや、俺なんかは性格の基本的な部分は、中学1年のときからほとんど変わっていないし変われなかった。

それでも中学時代は運動部に所属しており、また当時は足が早くて体育祭でリレーの選手に選ばれたりしていたので、その一生懸命走る姿に騙されたのか中学2年のバレンタインデーのときに初めてチョコを貰った。

その流れで3年のときにもチョコを貰ったが、今までの人生の中で、付き合ってる女以外、または職場の義理チョコを除いてチョコを貰った経験というのはこの2回だけだ。

ちなみにチョコを貰ったからってその後付き合ったり仲良くなったりなどすることもなく、また自分の好きな子、ルックスのいい子からもらったわけでもないので、嬉しいことは嬉しいが、別にどうということもなかった。
性欲はもちろんあったが、同級生の女とヤリたいとかそういう感情はほとんど無かった。

まあモテ期というものがあるとすれば、今思えばこの時期が人生最初で最後のモテ期だったのだろう。


高校時代は酷いものだった。帰宅部、大人しい性格、地味でかつ老けたルックスだったため、女の子から声を掛けられることなどなく、当然自分からも話掛けるようなこともなく、手すら握ったこともない、というかこの3年間の生活丸ごとほとんど記憶にないほど、思い出もなにもない灰色の青春だった。

だからといって勉強に打ち込むわけでもなく、というかそんな悶々とした日々だったからなおさら糞つまらん勉強などする気などなく、金があればパチンコ、家ではゲームばかりしていた。

そして高校卒業後浪人生活に入るわけだが、この1年間がニート気質、根暗気質、引っ込み思案気質をさらに強固なものにした。

予備校の本学生(毎日通う生徒)は何十万と金が掛かるからと、単科授業という90分1コマの授業を確か3つ取って、予備校には週に2日だけ通っていた。授業形式は大学の授業と同じような感じだ。

そして授業が終わったら誰ともしゃべらずひとりでゲーセンにいってゲームして帰るという孤独な生活を続けていた。

予備校の日以外の5日はほとんど外出するようなこともなく、一応家で勉強していたということにはなっているが、みっちり集中して勉強をしていたという記憶も無く、やってはいたのだが元々勉強は嫌いだったので、ちょっとやっては休んでみたいなことをくり返していたんだと思う。

ただ今みたいにパソコンもなければ携帯もなくネットも無かったので、情報源はもっぱらテレビだった。
一応受験生ということでゲームは封印していたので、勉強をさぼってはダラダラとテレビを見ていた。

そしてこの頃のテレビは今と違って面白く、またこの年は阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があり、とくに後者はその後のゆくえがどんなドラマよりもドラマチックかつ衝撃的で、某幹部達が昼間に記者会見したり朝まで生テレビに緊急出演したり、捜査員が物々しい毒ガス対策装備をしながらガス検知用のオリに入れられたカナリアを持ってサティアンに突入するなど、不謹慎ではあるが近くにテレビがあったら観ずにはいられない状況が続き、勉強そっちのけでちょくちょくテレビを観ていた。

とにかくこの年は、事件が収束する秋頃までは、テレビを点ければ朝から晩までこの事件のことをやっていた。

他にもプロレスや歌業界も全盛期で面白く、夜中の番組も面白いものが多かった。


こんな感じで1年間、家族以外はほとんど誰ともしゃべらずに家に引きこもってテレビを観る合間に勉強をして過ごした。

あの1年間はほんとうにしゃべらなかった。予備校に行ったときに駅などでたまたま出会った同級生と少し立ち話をした程度だ。

誰とどこでどの程度話したかを今でも覚えてるくらい、他人と会話するということが特別な1年だった。


19歳というもっとも多感で若さと青春に満ち溢れた時期を、この引きこもり生活によって棒に振った。


(つづく)



【2012/02/24 19:50】 | 自己紹介
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以前からナンパというものは、イケメンや、若くて今風で性格が明るくてしゃべりが上手い奴の特権だと思っていた。実際繁華街などで見掛けるナンパの風景はそういった人がほとんどに見えるし、オタク風な奴や垢抜けない暗そうな奴が繁華街でナンパにいそしんでる姿など見たことがない。


なのでオイラにもその中の唯一の武器、若さがあった時代でも、外見的には中、見る人によってはそれ以下であり、今風・オシャレかといえばそうでもなく、見た目・性格が明るいかと言われれば否であり、しゃべり下手なオイラがナンパなどしようものならキモがられるのがオチだと思って、そんなこと恐すぎてやろうとも思わなかった。


しかし最近になってなにげなくナンパ系のブログを読み、三十路を過ぎても結構ナンパをしてる人がいて、しかもしっかりと最後まで落としているというではないか。

でもやっぱりイケメンなんだろと思ったが、そうでもなかったり、ずっと内向的な奴とか30代でナンパ始めたなんて奴もちらほらいたり。

そういうのを読んでいるうちに得体の知れない(何の根拠もない)勇気が湧いてきて、これならオイラでも出来るんじゃね?となったのがいきさつだ。


さらに後押しをしたのが、もう本当にオッサンになってきてしまったのだと実感せざるをえないところまできてしまっているということだ。毎日鏡を見るごとに老けてきたなあとつくづく思うし、身体もたるみが出るようになってきた。とくにここ1,2年は加速度が増しているように思える。


時間が無い。女の心を少しでも揺り動かすことができる色を発せられるのは。ただでさえ淡く地味な色なのに。


もう待ったナシだ。



【2010/08/23 14:24】 | 自己紹介
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名前:ライタン
年齢:34歳
身長:181cm
体重:71cm
職業:大型タンクローリートレーラー運転手
今まで付き合った人数:4人


外見的特長・・・顔的にはフツメン。イケメンともブサイクとも言われたことがないからまあフツメンなのだろう。猫背、一重、よくクールだの冷たいだの怒ってるの?だの言われることがある。

第一印象が悪い。ほとんど接点が無い人なのにしょっぱなからなぜかデフォルトでムカつかれてることとかがある。

この辺はナンパ師としては致命的だろう。多少ブサイクでも愛嬌ある顔の方がよっぽどウケが良いと思う。この辺のことが長年コンプレックスとなっていて、なかなか女性に声を掛けることができなかった。

自分でも痛いほどわかってはいるのだが・・・なかなかうまく笑顔が作れないというか、もう顔の筋肉が愛想が悪い感じに固まってしまっているのだろうな。

でもそれじゃもちろんダメなわけで、最近は職場でももうわざとらしいくらい無理やり笑顔を作るように心掛けてはいる。


身長が高く体型は悪くはない方なのだが、正直デカすぎというか、ナンパにおいては相手に余計に威圧感を与えてしまってかえってマイナスのような気がする。

それにモテに関していえば、身長なんて特に小さいってわけでもなければそうたいした問題ではないと思う。イケメンで、オマケで身長も高ければなおいいよくらいなもんだろう。

つか181cmもあると服買ったりとか乗り物の座席に座ったりするときの不都合の方が多い。180cmを越えてもう20年近くになるが、身長が高くて良かったな~と心の底から思ったことは何一つない。


対話能力も難あり。とっさになると気の利いたことがなかなか言えない。3人以上になると黙り込むことが多い。

なんか学生がキャンパス内で5,6人の男女で輪になってだべっていたり、街中で若者がカラオケ店や飲食店の前で5,6人の男女が輪になってだべっていたりといった光景をよく目にするが、そういう輪に入ってたことがない&もし入っていたとしても一人だけぽつねんと黙り込んでる光景が目に浮かぶ。


一応大学って名前がつくところにも行ったが、4年間で彼女ができないどころか、同じ大学の女とも事務的なこと以外ほとんどしゃべったことがなかった。卒業間際で携帯の出会い系(当時はiモードなど普及してなかったから音声伝言みたいなやつ)でようやく彼女ができた。


まあそんなだったから当然就職もできず、バイトやら契約社員やらニートやらやったが、ニート期間も延べ3年くらい経験して対話能力がさらに低下した。

つか考えてみると、一般的な自然な流れ、たとえば学校のサークルでとか、バイト先でとか、職場でとか、そういうので彼女ができたことがない。みんな出会い系とかお見合いパーティとかだ。
ちなみに今の職場には女は一人もいない。


とりあえずこんなところです。また自己紹介的なことで思いついたことがあったらおいおい書いていきたいと思います。



【2010/08/22 15:30】 | 自己紹介
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